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芝生でゴロゴロするのが好きすぎて芝生のある公園をいつも探している 。 昼でも夜でもピク ニックしたい。ダーニングという魔法と出会って前より服を買わなくなった。
香港に行ったことはないけれど
 私は、ずっと香港のことが気になっている。1997年に香港がイギリスから中国に返還されたとき、「50年間は『一国二制度』を維持する」とした約束は、今はもうない。中国共産党の独断によって反故にされてしまったのだ。それに対して、香港の人たちは声をあげて意思表示をしてきた。

 日本で上映された、香港民主化デモを撮影したドキュメンタリー映画を観た。その映画は、もちろん香港では上映が許されていない。制作すること自体も危険行為とされている。映画の中では、未成年もデモに参加していた。そのことで逮捕された人たちもいる。それでも自分たちの香港を守るために戦うしかない。どんなにお願いしても聞き入れてもらえないのなら、もう暴力に訴えるしかない。単なる過激な暴走とは言えないのだ。

 もしも今、突然、私の生活から、言論の自由やデモ、ストライキの権利が奪われてしまったら、黙っておとなしく受け入れることができるだろうか? そう想像したら、香港の若者たちの憤りも行動も、少し身近に感じられるし、理解できる気もする。そんな香港の状況に、日本として手を差し伸べることはできないのか? 何ら意思表示をしない政府の動向を、もどかしい思いで見つめている。

 「中国」による人権侵害は、香港だけでなく、台湾、南モンゴル、チベット、ウイグルなどにもおよび、それらに対する抗議活動は、日本でもSNSへの投稿やデモ、集会等のかたちで行われている。でも、抗議や糾弾の声をあげるとき、「中国」とは何を指すの? ふと、自分の中でモヤモヤした。国家?政府?国旗?土地?人々? ――それは、「中国」という国を形成している構造自体だと思う。ただ、その構造の中にいる人たちもまた、私たちと同じ生身の人間で、それぞれがそれぞれの人生を、今いる場所で精一杯生きているのだ。「日本には『中国が嫌い』という人が多い」という調査結果をよく聞く。私は大学時代に中国に留学し、少数民族それぞれの特色あふれたキャンパスで、お互いの言語や文化を学び合った。人と人の触れ合いの中で、互いに思いやり、助け合ってきた。中国を嫌いだなんて、思えない。

 今、私のいる「日本」とは何を指すのだろうか? 私はどのような構造の中にいるのだろうか? 人権侵害や多様性について考えたり、議論したりする社会にいると言えるのだろうか? 香港出身の人や香港好きの人と会ったとき、自由を失った香港の惨状について語り合えるかと期待したが、そこで語られたのは、キラキラした観光地としての香港のことだけだった。なんだか寂しかった。

 きちんと声をあげたい。誰かを守るための活動が他の誰かを傷つけてしまうことのないかたちで。誰であろうと、「中国」という名のもとに、踏み躙られても仕方のない人なんていない。差別やヘイトを助長することのないかたちで、彼らに寄り添う方法はないのかを考えている。

 私にとって当たり前の「普通選挙」は、今の香港では当たり前ではない。私には「投票する権利」がある。それがどんなにすごいことなのかを噛み締めている。香港のことも、中国のことも、すぐに答えが見つかることではないし、長い道のりかもしれないけど、それでもこんなモヤモヤを一緒に考え、一緒に声をあげることができる政治や社会であって欲しいと心から願う。
芝生でゴロゴロするのが好きすぎて芝生のある公園をいつも探している 。 昼でも夜でもピク ニックしたい。ダーニングという魔法と出会って前より服を買わなくなった。